» 2017 » 5月のブログ記事

仕事においてうまく行く人といかない人が必ずいる。うまく行く場合、まぐれとかたまたまとかいう場合もあり、努力しなければうまくいかない訳でもない。プロ野球監督で有名な野村克也氏は、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と言ったが、至極名言だなと思う。勝つ時はたまたまそうなった、と言う場合もあるが、負けには必ず負ける理由が存在する。

うまくいかない人に見られる内面の感情は「やらされ感情」だと思う。これを持っている間はまずうまくいかない。100%うまくいかないと言い切ってもいいくらい。
「なんで私がこれをやらないといけないの」「オレも他にやらないといけないことがあるんだけどさぁ」「他にやる人がいないからしょうがない」これらの感情を持っていながら、何かを成し遂げようとしても、まずうまくいかない。かく言う自分自身もこれを随分とたくさんやってきた。そういう感情では、なかなかうまくいかなかった。仮にゴールを迎えたとしても、達成感を十分に感じることができなかった。

本日、MBA取得でお世話になったQ大のビジネススクール同窓会の総会に参加した。在校生の時から数えると7回目の総会への参加機会になったが、私は主催者側の立場でほとんどの総会に参加している。どちらかと言うと、同窓会のような組織運営はやらされ感情が先行し、会運営に消極的な場合が多い。それぞれの仕事や家庭の事情もあるし、余計な責任を負わせられるのは嫌だと感情も働く。

小学校のPTAの役員になるのに消極的なお母さんたちの心情と似ているかもしれない。それぞれ本来やらねばならないものを持っているので、仕方ないし、同情もできる。これまでの会運営や総会の雰囲気も、そんな雰囲気をどこか漂わせていたのは、常に運営側にいた私の未熟なやらされ感情のせいかもしれない。

しかし、今回の寺松一寿会長は違っていた。彼にはやらされ感情は一切感じられなかった。会長を引き受ける前までは、やるかやらないかで迷っていただろう。しかし一旦やると引き受けてからの彼の姿勢には、出来なくても人のせいにすればよいなどという他責思考は一切なく、会長職を自分のことと受け止めていた。

だから、周りの人を巻き込む時には、まるで自分の仕事の一部をお願いするように役割をお願いし、出来た時の感謝の言葉を投げかけることを忘れない。まさに会長職を「自分化」していた。そういうリーダーの元での組織は当然活性化し、強くなる。今回の功績の一つに優れたビジネスモデルを作った、あるいはチャレンジ中の同窓生を表彰するQANアワードの創設。それに加えて綿密な総会準備と運営。周りの理事メンバーの人たちの役割も明確で澱みがないので、効果的に機能している。

総会終了後の懇親会での参加者の評判も上々であった。「こう言う総会なら、また来年も参加してみたいね」と言う声も聞くことができた。

今回の総会で、リーダーシップのあり方を学ぶことができた。組織においてリーダーの立場もフォロアーの立場でもやらされ感情は組織運営にブレーキをかける。リーダーがそれだとそもそも組織は成立しない。そこには、リーダーとしての「決断」と「勇気」がいかに大切かが理解できる。

やらされ感情に侵され続けると、「できるだけ責任を負いたくない」感情がしっかり身についてしまって、チャレンジしなくなる。それはそれまで取得した知識の量に比例しない。知識があろうとなかろうと、チャレンジするには、不確実な未来に向かって行く勇気と決断が必要で、それには何事にも「自分がやる」という気持ちがないとうまくいかないことが改めて証明されたような感じがした。

彼は優れた経営者だ。派手さはないが、スタートアップや話題性でもてはやされているだけの人間とは違う、地道で、粘り強く、人の心情に寄り添える人物だと思う。MBAでは決して学べない現場体験の強さを彼は持っているに違いない。

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最近フェイスブックへの書き込みの方が多くて、このブログがおろそかになっています。

今日はiPadで試しに今思うことを書いてみます。

「今の若いものは」
私は、この歳になりこの言葉をしばしば聞くようになりました。

私もそれなりに年齢を深め、30歳で社長になり、23年目を迎えることになりました。大学を卒業して、社会人になり、最初に勤めた会社は製薬会社でした。半年の研修期間を経て、鹿児島へ赴任し多くの体験をさせていただきました。今考えてみますと、かなり横着で、不遜な態度を取りながら仕事をしていたと思います。私の年代は当時「新人類」と呼ばれ、よく「今の若いものは」と言われたものです。

それが、20数年経って、まわりの私の同年代の仲間から「今の若いものは」ということばがしばしば聞かれるようになりました。言われる方から言う方にいつの間にかなっています。

私はこの「今の若いもの」という言葉に、世代間から生じるギャップを受け入れきれない中年以降の大人たちのを度量の程度を感じます。生きてきた時代背景は世代によって異なるわけですから、違って当たり前のはずです。それなのに、自分が生きてきた過去を基準にして、それを正当化して、現代に生きる若者を判断しようとしている感じがします。

我々は、概していままでの体験の積み重ねから得た経験知を大切にしようとします。しかしそれにとらわれすぎると、それが固定観念、既成概念につながり、違うバックグランドを持った、特に職場での年代の若い世代の人たちを自分が勝手に作った観念で評価しようとします。

中年以降の年代の先輩側の我々が、そう言うものの見方、考え方をしているよねと気づくと世代間ギャップを埋める何かが生まれてくるのかもしれません。

人は皆、人それぞれであり、どの年代もいろんな人がいました。自己主張できない人もいれば、自分をありのままに表現できる人もいる。明るい人もいれば、そうでない人もいる。どの年代も一緒です。「最近の若い人は引っ込み思案な人が多いよね」「俺たちの時代はさぁ〜」という声がよく聞こえますが、どの時代でもいろんな人が存在します。ただ時代によって我々は時代に合わせて生きていき、ある傾向が生まれます。それはその時代に生まれた人たちの問題ではなく、時代そのものの傾向、つまり時代背景の問題だということです。

例えば、これだけ社会が成熟し、街にモノが溢れると所有欲求が衰えるのは、人の問題ではなく、時代そのものが生み出した問題ではないかと感じます。「今の若いもんは欲がないよね〜」ではなく、そういう人もいるし、欲だらけの人もいます。どの時代でも一緒。

おそらく、「今の若いものは」という言葉は、江戸時代から、いや縄文時代から言われてきたのかもしれませんね(笑)

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